「これはね、爆発したごはん」

 

子供たちは、線をかいたり、色をぬったりすると、どうしてそうしたのかをわたしに話す。自分の表現がもつ意味をかんがえる。「このぐるぐるは、うずしお、船がよけてとおる」「これは、朝と夜のあいだの色だよ」        表現がもっていたはずの意味を、無かったことにするひともいる。基地の前に立ち、笑顔でピースするという表現に、なんの含意もないとするひとたち。電車内の広告、漫画の女子高生の、いかにもフラットな顔に対して、肉体には執拗に陰影をつけ立体的に描くという表現に、意図は一切ないとするひとたち。        わたしは、その内容よりも、はじめに表現にもたせたはずの意味を、都合によって剥奪しようとする姿にいらだつ。表現が世界に関与する力を軽く見て、表現によって世界とつながることを拒否しているようにおもえる。        表現によって、現実のこの世界に報いようとする作品もある。タランティーノの『イングロリアス・バスターズ』、『ジャンゴ 繋がれざる者』、特に『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』、それ自体の媒体である映画についての歴史をモチーフにしていることによる、必然性や切実さ。ジョーダン・ピールの『NOPE』、搾取されてきた人々がスペクタクルを通して現実に復讐する物語。藤本タツキの『ルックバック』『さよなら絵梨』。『ルックバック』がまさに現実のこの世界に報いようとしているのに対して、『さよなら絵梨』は、漫画の中の映画が、漫画の中の現実に報いようとする構造。        作者たちは、表現が世界に関与する力を信頼しているし、表現によって世界とつながろうとしているから、わたしたちのこころをうつ。        子供が、描いた絵をゆびさして、「これはね、爆発したごはん」と言った。それは描きたいものをおもいついて、それを描き、世界とつながった瞬間。「爆発したごはんなんだね」

でも、わたしが一番すきなタランティーノ作品は『デス・プルーフ』。
エイプリル・マーチの「チック・ハビット」流れるエンディングは最高。

Desu Purûfu in Guraindohausu (2007) - IMDb