おしろい花が咲いている。     おしろい花の種をつぶすとでてくる白い粉で、子どものころ、お化粧ごっこをした。その粉に毒があるとは知らず、身体のいろいろなところに塗った。おしろい花の白い粉を塗るとき、わたしはお姫様で、人魚で、妖精だった。    いま、朝、感覚器官のさきっちょに、肌色や、茶色や、無色透明の粉を塗って仕事へゆくとき、わたしは。     ずっときらいだったぼろぼろの手に、金色と銀色のきれいな指輪をつけられるくらいには、自分の身体を受けいれることができるようになったけれど、一方で、わたしと、わたしの身体との関係には、近ごろ緊張感が足りていない。マンネリ化したわたしたちの、出会ったころを思い出すために、あしたは睫毛を青色にする。太陽のもとで青く光る睫毛。いまもなにかになれるかもしれない。

身体の表面、とくにその開口部(目や口や耳)や指先といったわれわれの感覚器官は、墨で、紅で、鉱石や金属で、そしてエナメルで飾られていても、それはもはや、宇宙をより深く、よりみずみずしく迎え入れたり逆に悪霊の侵入を防ぐという呪術的な意味は失って、むしろ他者、つまり社会の別の構成員に向けられた誘惑や演出の手段、対人関係の微調整の手段、もしくは一定のルールのなかでの小さな逸脱を演出するための手段でしかなくなっています。

鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』