若葉

道端の雑草、知らないひとの家の生垣、公園に雑然と生えた木々の、若葉が芽吹いていますね。若葉はつやつやしていて、まるで赤ちゃんを見たときのように、「若いってそれだけでうつくしい」と思います。子どものころから若葉が芽吹くと、陽の光を反射するくらいつやつやで、すべすべなその葉を撫でで歩いていました。中学校へ登校するときも、道端にある低い生垣の、その表面にぴんと立った若葉を手でさらさらと撫でながら歩いては、当時いっしょに登校していた、学年一その見た目の華やかさが際立っていたナツミちゃんに「変なの」と笑われていたのを思い出します。わたし、ナツミちゃんに「ほら、ツツジって甘いんだよ」とツツジの蜜を吸って見せたことがあるような気がするけれど、たしかナツミちゃんは吸わなかったな。「若いってそれだけでうつくしい」。ナツミちゃん、わたしいまも、今日も、さっきも、歩きながら若葉を触っていたの、ナツミちゃんは何てわたしに言いますか。

 

わたしと一緒にいるひとが涙する。わたしといると涙する。自己中心的な言動によって、悲しい思いを生み出すわたしには、ひとと生きる資格がない。そうしてわたしはまた本を手にとる、バディウを、ホネットを、奥村隆を。「ひとと生きるにはどうしたらいいの」その答えが知りたくて。  東京国立近代美術館の『中平卓馬 火―氾濫』の最後の部屋では、風でフェンスの向こうへ飛ばされてしまった帽子を、制止を振り切って取りに行こうとする晩年の中平の映像が流れていた。手をつなぎながら映像を鑑賞していた老夫婦は、その映像を観ながら「動物みたい、自己中心的ね」とつぶやいた。そうして老夫婦はわたしのほうへ振り返るとこう言った、「お前もだよ。本を読んでいれば知的な人間のふりができると思ったか?お前も動物のように自己中心的な野蛮人だ、お前は野蛮人だよ」   目の前のひとを受け止めることができず、本へと逃走するわたしは、誰とも手をつないではいけない。だけど、制作と理論の狭間で、主観と客観の狭間で文字通り記憶を失い、老夫婦に「自己中心的ね」とこぼされた晩年の中平は、それはそれは直接世界に触れたような作品を撮っているんだ。徹底して利己的な人間こそ、利他的な人間に成り代わり得るとは言えますか。徹底した〈わたし〉こそが、他者へとひらかれるとは言えますか。

 

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胸の中には濁流が流れているのに、今わたしの手はここ20年の中でいちばんすべすべしています。お医者さんは「どうしたの、何かいいことあった?」とわたしに尋ねる。胸をひらいてこのどろどろを見せられたらいいのに。わたしの身体も、わたしの心も、わたしの言うことを聞かない。わたしすらわたしの他者だ。この世界には他者しか存在しない。  だけど、わたし、わたしのすべすべな右手の小指には銀色の指輪を、わたしのすべすべな左手の小指には金色の指輪をつけてあげるね

池垣くん

楳図かずお漂流教室

人生が詰んだと思っているひとのことを「無敵の人」と言うけれど、わたしたちはいつかどうせ死ぬという意味においては全員「無敵の人」だ。その暴力的なまでの確かさを自覚し続けてはじめて、「無敵の人」としてのエネルギーをどう照射するかという問いに直面することができる。そうしてわたしたちの可能性は無限にひろがる、その無限にひろがった可能性を、いかに創造的な方向へと導いていくかだ。   わたしはよく、『漂流教室』の池垣くんのことを思い出す。防衛大臣として、怪虫を食い止めるために、腕をちぎられてもなお「みんな!!さいごまでやるんだっ!!」と立ち向かい、ぼろぼろになって死んでいった池垣くん。    わたしたちの目の前に怪虫はいない。だけどほんとうは、いつかどうせ死ぬという怪虫が、いつだってわたしたちの目前に迫っているんじゃないか。池垣くんが「さいごまでやるんだっ!!」と自分のすべてを奮い立たせて生きた、「無敵の人」としてのエネルギーを一挙に放った、あの瞬間を、何年、何十年と引き延ばしたその只中を、いつだってわたしたちは生きていると言えるんじゃないか。   池垣くんの目は、狂っていない、圧倒的に、正気だ。わたし、さいごまで、やるのよ

 

だけど一方で、いわゆる「無敵の人」という言葉で称される、あまりにも現実的で社会的な理不尽に直面しているひとびとの苦しみを矮小化してもいけない。それらも含みこんだ上でどうやってわたしたちはさいごまでやっていけばいいのか。人生と世界はわたしたちにあんまりにも重たいですね

 

夜、部屋の窓から月を眺めて、深夜のラジオだけを友だちに、ぽろぽろ泣いていた14歳のわたしへ伝えたいことは、あなたのその激情は20年経っても続いているということ、20年経ったいまもあなたは月を眺めて泣いている、それはとても豊かなことであり、とても苦しいということ

 

眩しさ

 

眼科の検査では瞳孔をひらく薬をうつので、鏡でみるとわたしの目はフクロウみたいにまんまる、帰り道の世界は目があけていられないほどに眩しくなる。   調布へ向かうバスから見えるこの世界の中で、いちばん眩しいものは白線です。この街を暴力的に区切る白くて美しい線。デッサンをするなら木炭紙の地の色を活かすか、練り消しできりりと消せばよいでしょう。    つぎに眩しいものはひとです。風を感じながら走るひと、難しい顔をしてタバコを吸うひと、手を繋いで歩くひと、犬の散歩をする車椅子のひと、そのどれもが白線で区切られたこの世界の中を躍動し、ちらちらと輝きながら行き交っている。この世界で愛をつかみそこねているのはわたしひとりのように感じられる。わたし以外のすべてのひとが、眩しい。   「また1年後に検査に来てほしいんだけど、別の街に引っ越したようだから難しいですか」「いえ、先生の丁寧な説明を聞くのが楽しみなのでまた1年後に来ます」