あまりにも春

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10年前に同じ学校で働いていた男性の先生は、いまも苦労を糧につつましく誠実に働いていて、成人した娘の写真を嬉しそうにわたしへ見せてくれた。深い皺のある乾燥したその手。先生は美しかった。森の中でしずかに朽ちていく木みたい。   わたしは生にしがみついている、目も当てられないほどに。今日はあまりにも春だ

不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。

わたしはこの不条理な世界に理性でもって触れたくて大学院に行ったのですが、世界はわたしの理性をするりとかわし、そればかりかわたしの奥の奥の奥の座敷で眠っていた感性を叩き起こして掴んで、もう離してくれない。

どうしてあんなにおびただしい努力を重ねる必要がぼくにあったろう。たたなわるあの丘々の優しい線や、乱れさわぐこの心をそっとおさえてくれる夕暮れの手のほうが、世界についてずっと多くのことをぼくに教えてくれるのだ。

わたしはほんとうは子どものころから、世界と直接出会う仕方を知っていました。今年一年なかば狂ったかのように勉強をして、わたしの一部はかえって子どもになったのです。こんなにも感性で世界と触れあうことができるという子どものよろこびと、こんなにも世界は理性をすり抜けていくという大人のさみしさ。この拮抗状態に立ちつづけることは、この上ない苦しみでありながら、この上なくわたしを自由にするということを、知ったのです。

ちょうど、人生の不条理性に気がついたことで、かれらが自信をもって人生に跳びこみ、あらゆる面で常識を超えた振舞いをすることができたように。

 

カミュ『シーシュポスの神話』

哀れなるものたち(2023)-IMDb

わたしが「わたし、ずっとこうして勉強したり研究したり制作したりして生きていたいです」と言うと、ひとが「そりゃあ誰だってそんなことができるならしたいでしょ」と笑う。「できるならしたい」けれども「しない」という、その「しない」判断をさせているものは何でしょうか。人生において「できるならしたい」ことをする以上に切実なことって何ですか。生活を支えなければいけないことは理解するのですが、水槽の中の脳の概念を親友にして生きてきたわたしにとっては、存在するかどうかも曖昧なこの社会のルールに付き従うかたちで「しない」判断を積み続けることが、自分という実存の何を担保しているのかがわからない。のたれしぬ自由があることは、わたしたちの絶望だとおもいますか、それとも希望だとおもいますか。わたしはいつも、いつも、渋谷の、バス停のベンチのことを想っている     それで、わたしが最近「できるならしたい」から「した」ことは、節分ではない日に豆を撒くということです。豆を撒く、あれはいい行為です。みんなの分も、福豆を買いだめておいたから、豆が撒きたいときは、わたしに言ってね

『哀れなるものたち』には、この不条理な世界を子どものように生きていく悦びと苦しみと希望がある。ベラは娼館で働くとき、客の男性に対して「子どものころの話をして、わたしはジョークを返すから」と言う。あのときのベラと男性の笑顔。存在するかどうかも曖昧なこの社会で、自分と他者と世界の切実さだけにひらかれていたい

 


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わたしを見て、わたしを見るな

かぐや姫の物語(2013)-IMDb

自分の女性性を貶めたいとき、短すぎるくらいに髪を切る。けれども一方でそのときわたしは、普段はつけないマスカラでまつ毛を伸ばし、いつもより薄いタイツを穿いてしまう。わたしは、自分の女を憎みながら愛することしかできない。欲望される恐怖を動力として生きてきたのに、わたしはどこかで、欲望されることを渇望している。そうして、自分の女をめぐって引き裂かれているわたしは、ゆがんだコミュニケーションしか取ることができず、最後にはいつも、消え去らなくてはいけない。わたしにも帰る月があればいいのに。   河合隼雄は、そんな女たちの物語を「見るなの座敷」として論じています。

「あわれ」の美意識が完成するためには、女性が消え去らねばならない(これは日本文化のもつ宿命のように思われる)。このように考えると、日本の神話・伝説・昔話のなかで、消え去っていった女性の姿がつぎつぎと想起されるのである。そして、それらの像は、わが国の文学や演劇のなかにも特徴的にあらわれてることがわかる。たとえば第6章に取り上げる「鶴女房」にしても、男性が女性の禁止する戸棚のなかを覗き、それによって、女性は立ち去ってゆくのである。禁止を破られた女(実は鶴なのであるが)は、それに対して怒るどころか、自ら身を引いてゆくのだから、何ともあわれな物語である。

 

河合隼雄「第1章 見るなの座敷」『昔話と日本人の心』

 

芸術/生きること

芸術の価値はあとからでないとわからない。言い換えると、表現行為の時点ではその価値をあらかじめ確かな目標として設定することができない。だから、そこには徒労感がある。むしろ、徒労感が伴わない芸術は疑った方がいいとさえ言える。徒労感が伴わないということはつまり、現在の既に了解された価値基準に則っているということであって、そこでは芸術の本質的な価値に迫ることはできないから。さらに、芸術はその人の人生に要請されている必要がある。わたしは空に顔を浮かべないし、街で氷を溶かさない、しかたない、だってそれはわたしの人生には必然性がないから。だから徒労感があっても、自分の人生が要請することに、自分にとって差し迫ったことに、結果的に価値があるかもしれないと信じて、芸術も、人生も、やるしかない。わたしたちは人生のほとんどについて祈ることしかできない。徒労感の中にだけ、人生の本当がある。さみしくてたまらないけど、あとからわかることだけが、さよならだけが、人生の本質だ。きっとそれが、芸術のように生きるということなんだ。

 

 

ツィゴイネルワイゼン(1980)-IMDb


リアリズム絵画を研究する青年がわたしに網膜上の問題を語る。わたしはきみの網膜に映っているのか、それとも。   わたしを語りの的にするひとは、わたしを語りの的にしているとき、わたしの中にどれくらい固有のわたしを見ているの。わたしが語りの的になるのは、わたしがわたしだからなの、それとも、わたしの属性によるものなの。わたしは語りの的にされるとき、わたしのこころにまで語りを招き入れている。こころに招き入れない会話には意味がないとおもうから。ならばわたしにも、きみのこころに引っかき傷くらいつけさせてくれよ。けれども、わたしは語りの的になっているとき、語り手に何かを期待している。耐えがたいほどに狡い人間だ、わたしは    わたしを幸福にするのは、語りによって与えられた知ではない。自分で掴み取った知だけがわたしを幸福にする、それをわたしは知っている。でもそれがときどき、孤独でたまらない

 

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