TARと穂村弘の嘆息

Tār(2022)-IMDb

子供のとき、感謝ばかりするラッパーに腹がたって「もっと反抗しろ!」と思っていたけれど、今、若いひとが何かを畏れたり、何かに反抗したりすることは尚更むずかしくなっていると感じる。若いひとが畏れたり反抗したりする必要がないように、あらかじめその対象が大人たちによって排除されているということだ。

大学の教授が、やさしい。わたしは最近大学に通っているのだけれど、教授たちはみなすごくやさしい。     わたしが大学生だったころ、学生にとって教授は自分たちとは質を異にする存在だった。教授はときに、作品を否定してきたし、考えもしなかったような問いをぶつけてきたし、未熟なわたしたちをねじ伏せてきた。だから作品の講評会はその緊張感で張りつめていて、学生は震え、泣き、虚勢をはり、怒っていた。    それでも基本的に、教授を拒絶する学生はいなかった。非対称な関係性の中で生まれる、不安定で、決して愉快とは言えないコミュニケーションによってのみ、得られるものがあると、みんなどこかで実感していたからだと思う。    だけど今はちがう。今は、自分を困惑させ、否定するひとの意見は、取るに足らないものだし、自分を不快にするひとは排除されて当然の存在だ。大人もそれをわかっているから、若いひとを困惑させたり、否定したりしないように事前の配慮を尽くし、若いひとを不快にする存在はあらかじめ退場させておく。   つまり教授たちに課されているのは、反抗されるべき脅威としての役割ではなく、若いひとを理解し、ありのままを認める、共感的な役割なのだ。      だから、『TAR/ター』の、脅威としてのリディア・ターはキャンセルされなければならなかった。わたしたちの周りのターの多くは、退場させられているか、自ら舞台をおりている。  (最近、舞台演出家の方と話をしたのだけれど、彼は「昔は怒ることで新しいものが生まれたから怒っていたけど、今は怒ったら逃げられてしまって何も生まれないから怒らないよ」と笑っていた。彼もまた、あらかじめ舞台をおりたターのひとりなのかもしれない。)     2005年に、穂村弘は、長嶋有との対談でこう話している。

いま時代全体の趨勢として、「ワンダー(驚異)」よりも「シンパシー(共感)」ですよね。読者は驚異よりも共感に圧倒的に流れる。ベストセラーは非常に平べったい、共感できるものばかりでしょう。以前は小説でも、平べったい現実に対する嫌悪感があったから、難解で驚異を感じる、シュールでエッジのかかったものを若者が求めていた。でも今は若者たちも打ちのめされているから、平べったい共感に流れるのかな。

穂村弘『どうして書くの?—穂村弘対談集』

大人が若いひとの要望にこたえつづけた結果、シンパシー(共感)が蔓延したのだろうか。それとも、大人がすすんで、若いひとがワンダー(驚異、脅威、畏れ、ター)と出会う機会をつぶしているのだろうか。     大人と若いひとの共犯関係によってかたちづくられた”気持ちのよい”空間で、自分が求める共感的なコミュニケーションだけ図ってゆきたいのであれば、わざわざひととひととが共に生きていく意味なんて、そこでは空っぽになってしまいそうで。   ただひとを傷つけることを目的としたコミュニケーションが否定されるべきなのは確かなので、むずかしいことです。わたしに力があれば、ターと穂村弘の対談を企画して、なにか糸口を見つけたいところなのですが。

 


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一方で、わたしも、10歳も年齢の離れたひとと話すときは、そこになんらかの力関係が働いてはいないかと慎重になる。ですから、わたしが高校生のとき、社会人の大人と付き合っている子が何人もいましたけど、あの大人たちはなんだったんですか?あのときの大人たち、ちょっとそこに並んでもらっていいですか。