伊藤亜紗『手の倫理』

ピエール・ボナール≪浴槽≫

わたしは子供のころからアトピーで、皮膚がぴりぴり痛んだり、かゆくなったりして、自分の表面、つまり自分の輪郭を、つねにはっきりと感じながら生活してきました。また同時にわたしは子供のころから、第三の目が少し高いところから自分をいつも俯瞰して見ている感じがあって、メタ認知が過剰に働いているようなところがありました。わたしが抱いてきたそのような諸感覚を、伊藤亜紗の『手の倫理』を読んだとき、やさしく認めてもらえたような思いがしたので、ここに引用します。この本では、コンディヤックの『感覚論』を引用しながら、こう述べられています。

私たちが自分の身体にふれるとき、それは同時に「ふれられているのは私だ」という感覚をもたらします。私が私にふれるときは、私は私によってふれられてもいる。この触覚に特有の主体と客体の入れ替え可能性を、本論では触覚の「対称性」と呼びたいと思います。…注意しなければならないのは、私は主体でも客体でもありうるけれど、同時に主体でありかつ客体であることはできない、ということです。…興味深いのは、コンディヤックにとって、この対称性が「体をもった物理的な存在としての私の発見」という形で経験されていることです。私が、単なる精神ではなく、固有の空間を占める物体として世界に存在していること。このことは、裏を返せば、私が体として存在していることは、「発見」されなければならないほど、ときに曖昧になりうるものなのだ、ということを示しています。触覚は、そのような曖昧さのなかにある私に、明確な輪郭を与えてくれます。

アトピーの痛みやかゆみによって、つねにわたしには「ふれられている」という感覚がもたらされており、自分というものの輪郭を明確に味わってきました。だから、触覚に特有の主体と客体の入れ替え可能性のうち、わたしの場合は「ふれられている」客体が優位に働いていて、第三の目が出現し、今にいたるまでわたしは上空から「発見」され続けているのかもしれません。わたしは、アトピーによって、自分を客体化してきたということです。  これまでの自分の感覚にお墨付きをもらったようで、みょうに合点がゆきました。  さらに、双極性障害で入院した経験をもつ歴史学者の与那覇潤の語りを引用しながらこう述べます。

うつになった人が布団をかぶって閉じこもるのは、「いまある自分の身体というかたちの、自己の輪郭をもういちどはっきりさせようという衝動が、そういう行為をとらせたのではないか」と与那覇は言います。じっと動かず、布団の中で体を折りたたむ。その全身の触覚が、己の存在を確かなものとして取り戻す手がかりになっています。

ときに人が布団に閉じこもってでも感じたくなるような自分というものの輪郭を、わたしはいやというほどいつも味わっていて。わたしはむしろ己の存在を不確かなものにするために、湯船につかります。湯船につかると、痛みやかゆみがやわらいで、輪郭はとけだして、わたしは単なる精神として、ぼんやり浮かんでいられるから。第三の目もこのときばかりは目玉の親父よろしく、湯船で気持ちよさそうにするのです。    わたしばかりが自分と自分の体との距離をはかりかねて苦しんでいると思っていましたが、みんなそれぞれに、ふれたり、ふれられたりしながら、自分の輪郭と向き合って生きているんですね。この本でそれがわかって、やさしくなりました。