「わたしはいま生きている」

 

初夏の酷暑で枯れるときを逸し、ドライフラワーのようにずっとそこにこわばっていた紫陽花が、今日の雨を吸いこんで、6月みたいにうれしそうな顔をしていました。    9年ぶりに学問をしているわたしは、急速に人間性を回復していて、あまりにも美しい世界を彷徨っているのですが(朝は草木がきらきらして、夜は風がなででくる)、そこでテレオノミーな主体となるとともに、自己裂開的な構造に晒されることは、「わたしはいま生きている」であると同時に、とても苦しいです。    ぱさぱさに渇いていた体に水をしたたらせている紫陽花、あなたはまるで今年のわたしのようだけど、どんな世界をみていますか。ふたたび世界が輝いていることが、しあわせでたまりませんか。それとも、自分がほんとうは朽ちていることを知っている、そのむなしさが、耐えがたいですか。