わたしは、友だちがほしい

日常の暮らしからは すっぱり切れて

ふわり漂うはなし

生きてることのおもしろさ おかしさ

哀しさ くだらなさ ひょいと料理して

たべさせてくれる腕ききのコックはいませんか

 

茨木のり子『清談について』より

わたしは、友だちがほしい。茨木のり子のいう、「清談」のできる友だちが。わたしたちがなぜ生きていて、どう生きていくべきなのかについて話し合える友だちが、きらきらと輝く海の美しさについて話し合える友だちが。   人生で何回か、「ああ、友だちになれるかもしれない」とおもうひとに出会った。それは男のひとが多かった。だけど、身体的な関係が築けないことが分かって離れてゆくか、自慰的な言葉を当てる壁として、自分より無知である(しかし壁として良いはね返りがあるほどには知恵がある)わたしを思う存分消費して離れてゆくか、そのどちらかが多かった。清談できているような気持ちになっていたのは、ただわたしが女であることによるものであったと気づくとき、わたしは自分に対する嫌悪感に苛まれてきたのです。自分がそれを利用している側面があるということもまたわかっているから、なおさらに。    わたしは、美しくない女のひとです。美しくないにもかかわらず、それでも、女の身体が、涙が出るほど邪魔で仕方ないのです。わたしは、友だちがほしい。    そうしてわたしは、水槽の中のわたしの脳を管理する博士のもとに帰ってゆきます。「博士、やっぱりわたしの友だちは博士だけです」だけど博士は言うのです。「僕のところへ帰ってきたんだね。でも教えてあげよう、きみに友だちができないのは、きみが女だからじゃない、きみが、きみだからだ」そうして博士は、わたしの頭を、優しく撫でるのです。涙を流すわたしの逃げ道すら奪いながらも、優しく、優しく・・・