大江健三郎は、伊丹十三自死に関してこう語ったといいます。

当人もあと三日我慢すれば、自殺願望が去ることくらい分かっていただろう。でも今の死にたい思いを大切にしたい、ということもあるのではないか。*1

おそらく、伊丹十三自死を受けて書かれた『取り替え子』の中に書かれているのではないかと、本をあたってみたのですが、該当箇所が見付けられず、そう語ったらしいという限りなのですが。わたしはこの話が頭から離れない。なにが離れないのかというと、「自死は究極の自由か、それとも究極の不自由か」という問いが頭から離れないのです。    わたしは今年、奇跡みたいな一年を過ごしています。自分について考え、他者について考え、本を読み、言葉を書く。「わたしたちはどうして生きているんだろう」と考えているとき、わたしの世界はまぶしくかがやき、微笑みかけてくるのです。ああ、こんなにも満たされたまま、どこかへ消えてしまえたらいいのに…    そう強く感じたとき、いままで不思議におもっていた伊丹十三や、川端康成の死が、なんだか妙に、身近なものに感じられました。つまり、「生まれることは選べないのに、死ぬことは選べるんだ」という至極あたりまえのことに対して、感動とすら呼べる気持ちを覚えてしまったのです。ひとは自由を自分勝手に振りかざすと、社会的な死を迎えます(収監、死刑など)。自由の行使は死と結びついている。その中で自死は、他者を傷つけずに行使できる究極の自由なのではないか?と、考えてしまったのです。    わたしは消えるわけにはいきません。だけどふと傍らに目を遣れば「自死は究極の自由か、それとも究極の不自由か」その問いが横たわっていることは、わたしの人生の美しい影のひとつであるとおもえてならないのです。そしてときおりその美しい影に、すいこまれそうになるのです。

そんなことを言っていますが、わたしは今日も森高千里の「気分爽快」を歌いながらシチューをつくり、生き生きと活動をしました。そして矢野顕子はわたしにいつも「さよならだけが人生なんて ほんとのことかな?それだけかな?こんにちはだってあるよね 毎日あるよね」と教えてくれます。

 


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