不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。

わたしはこの不条理な世界に理性でもって触れたくて大学院に行ったのですが、世界はわたしの理性をするりとかわし、そればかりかわたしの奥の奥の奥の座敷で眠っていた感性を叩き起こして掴んで、もう離してくれない。

どうしてあんなにおびただしい努力を重ねる必要がぼくにあったろう。たたなわるあの丘々の優しい線や、乱れさわぐこの心をそっとおさえてくれる夕暮れの手のほうが、世界についてずっと多くのことをぼくに教えてくれるのだ。

わたしはほんとうは子どものころから、世界と直接出会う仕方を知っていました。今年一年なかば狂ったかのように勉強をして、わたしの一部はかえって子どもになったのです。こんなにも感性で世界と触れあうことができるという子どものよろこびと、こんなにも世界は理性をすり抜けていくという大人のさみしさ。この拮抗状態に立ちつづけることは、この上ない苦しみでありながら、この上なくわたしを自由にするということを、知ったのです。

ちょうど、人生の不条理性に気がついたことで、かれらが自信をもって人生に跳びこみ、あらゆる面で常識を超えた振舞いをすることができたように。

 

カミュ『シーシュポスの神話』