炭鉱のカナリア

「実家の太さは制作をつづける上で重要」というような話をよく見聞きする。わたしも学生の頃、お金のあるひとは生活に強い不安を抱かずに制作できるからいいな、と思うことはあった。また、自分のコンプレックスによる負のエネルギーを発しているひとが少なく、社会の問題を自分自身の問題として扱うことができるひとが多いとも感じていた。だから、より多くのひとに響きやすい作品をつくることができると。余裕のないひとは、自分自身の問題に向き合うことで精いっぱい。(余裕がお金だけによるものでないことは、もちろん今はわかるけれど。)         でも、ときたま、奇跡のように、余裕のないひとの、そのひと自身の問題が、社会の問題と合致することがある。そのひと自身の苦しみによる作品が、見えるべきだった社会の問題に輪郭を与えることがある。毒ガス検知器としてのカナリアが死ぬように。    わたしはそういう作品がすきです、そこには本当の切実さがあるから。色っぽさのようなものさえ感じます。わたしはいま、ほとんど制作をできていないけれど、自分にとって必然性のある切実さを抱えて仕事をしたいとおもいます。「君たちは先頭で死ぬカナリアだ」と美術に呪いをかけられた者として。

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子どもの悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じぐらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです

 

茨木のり子 『汲む―Y・Yに―』より

茨木のり子はそれを「震える弱いアンテナ」と言っているようにおもいます。