わたしは年末が一番すき。年末は、一年の中で心が一番休まるから。つまり、終わりがすき。見通しのもてない始まりではなくて、見通しのもてる終わりが、わたしの心をおだやかにする。         今敏が亡くなったときも、志村正彦が亡くなったときも、高橋幸宏が亡くなったときも、ああ、もうこのひとたちの表現が新たには生まれない世界に、わたしはこれから進んでいくのかと、とびきりさみしくなった。最近、ことさらに喪失がさみしい。今からこの調子では、これから避けられないであろう家族の死などに、わたしは耐えられるんだろうか?           震災や疾病や戦争で、自分が育ってきた世界が変わってゆくことにもまた、喪失のさみしさがある。夜の、漆黒の海に、燃える家が流れてゆく映像をみたとき。今まさに煙をあげだした原発の様子に言葉を詰まらせるNHKのアナウンサーをみたとき。本棚にある「終わりなき日常を生きろ」の文字がぼろぼろとくずれていくのがわかった。 家の近くのレンタルビデオ屋も、豪華な七夕飾りを出していたおもちゃ屋も、油絵の具をはじめて買った画材屋ももうない風景の中で、日々「大きな物語」がわたしの育ってきた世界の形を変えてゆくのが、さみしくてさみしくてたまらない。          年老いたひとが、「もうすぐ私もあっちへ行くよ」とよく言うけれど、そこには、天国にいる家族のところへ行くという意味だけではなく、過ぎ去っていった愛しいものたちの世界に自分もようやく加われるという意味も込められているのかもしれない。そんなとき、もしかして死には、まるで年末のような、見通しのもてる終わりのおだやかさがあるのだろうか。———わたしが帰省した丁度その日の夜に亡くなったおじいちゃん、眠る前におやすみを言いに行ったとき、わたしが戸を閉めるまでこちらをじっと見ていたおじいちゃん、そのとき心はおだやかでしたか。この喪失のさみしさをこれからさらに積み重ねて年老いていったとき、死には、まるで年末のような、見通しのもてる終わりのおだやかさがあると思いますか。

わたしの年末は、正確に言うと、三山ひろしのけん玉ギネス記録チャレンジを観ながら、かつて失敗した14番と86番のひとの心境を想像しているとき以外は、心が休まっています。