「月が綺麗ですね」の現象学

わたしは、夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と翻訳したらしいというエピソードがとてもすき。    ふたりが絶対的に別の存在であることを認めたうえで、それでもなおある世界の美しさを、月の綺麗さに託して共有することで、さみしさを噛みしめるような愛を実現しているふたりを描いているように感じられるから。わたしたちは別の存在だけど、あのきれいな月だけは、いっしょにきれいだと思うことができますね、という一縷の希望を、ふたりで握っているように思えるから。   最近、この、「月が綺麗ですね」が、とても現象学的なのではないかと思うことがあった。森田亜紀は『芸術と共在の中動態』において、現象学の研究者である新田義弘の言葉を引用しながらこう述べている。

新田は、「一つの世界」に対する私とは別の視点として、他者を捉える。自他差し向かいの他者との関係が二項関係であるのに対し、「一つの世界」を介した他者との関係は三項関係ということになる。ただしこの三項関係が成立するためには、世界が「一つ」でなければならないはずだ。私にあらわれる世界と他者にあらわれる世界とが、(別様にあらわれはしても)別の世界であってはならない。同じ世界に対する私の視点と他者の視点であってはじめて、私と他者の関係が三項関係として成り立ち、私と他者とは関わる。

「I love you」と直接伝えるよりも、夜空に綺麗な月がうかんでいるその「一つの世界」を介してこそ、他者と深く関わることができるとする「月が綺麗ですね」の態度。それはまさに「私と他者の関係が三項関係」として成り立つさまであると言えるのではないだろうか。   また森田はこうも言う。

芸術という領域における他者との関わりは、自他差し向かいの二項関係ではなく、「作品」を第三項とする三項関係である。そこにおいて、私と他者とは、同じ「作品」と関わることによって互いに関わりをもつ。この関係には、私と他者という二項に加え、「作品」という第三の項が必ず介在する。

わたしは子どものとき、「みんなお人形なんじゃないか」「わたし以外のみんなにはわたしみたいな意識はないんじゃないか」と思っていて、そして大人になって今に至るまで、自分以外はみな自我をもっていないかもしれないという不安をぼんやりかかえて過ごしてきた。   だけど不思議と、誰かが表した作品を前にしたとき、そのときだけは他者がたしかに存在しているらしいということが感じられる。作品をみるときだけは、他者とほんの少しはつながっているような感覚をもつことができる。     このこともまた、「一つの世界」にある「作品」という第三項を介することによって、「私と他者の関係が三項関係」として成り立ち、わたしと他者とがはじめて関わっている状態と言えるのかもしれない。

愛する二人が月を介して握っていた希望と、不安なわたしが作品を介して握っていた希望は、つながっていたかもしれないのです。「私はあなたとともにひとり、あなたとともに私はひとり、この世界でひとり」