わたしを見て、わたしを見るな

かぐや姫の物語(2013)-IMDb

自分の女性性を貶めたいとき、短すぎるくらいに髪を切る。けれども一方でそのときわたしは、普段はつけないマスカラでまつ毛を伸ばし、いつもより薄いタイツを穿いてしまう。わたしは、自分の女を憎みながら愛することしかできない。欲望される恐怖を動力として生きてきたのに、わたしはどこかで、欲望されることを渇望している。そうして、自分の女をめぐって引き裂かれているわたしは、ゆがんだコミュニケーションしか取ることができず、最後にはいつも、消え去らなくてはいけない。わたしにも帰る月があればいいのに。   河合隼雄は、そんな女たちの物語を「見るなの座敷」として論じています。

「あわれ」の美意識が完成するためには、女性が消え去らねばならない(これは日本文化のもつ宿命のように思われる)。このように考えると、日本の神話・伝説・昔話のなかで、消え去っていった女性の姿がつぎつぎと想起されるのである。そして、それらの像は、わが国の文学や演劇のなかにも特徴的にあらわれてることがわかる。たとえば第6章に取り上げる「鶴女房」にしても、男性が女性の禁止する戸棚のなかを覗き、それによって、女性は立ち去ってゆくのである。禁止を破られた女(実は鶴なのであるが)は、それに対して怒るどころか、自ら身を引いてゆくのだから、何ともあわれな物語である。

 

河合隼雄「第1章 見るなの座敷」『昔話と日本人の心』