「あなたは美しいわ」

わたしは知恵子になりたかった。 電車でわたしを触りつづけた知らないひと。紀伊国屋でわたしの腕をつかんで離してくれなかった知らないひと。玄関の前でわたしを触って「ごめんね」と言った知らないひと。公園で近づいてきた知らないひと。プールの、知らな…

手をふるということ

月に一度、学校へ行くとき、わたしが門から入って校庭を歩いていくと、それに気づいた子どもたちがわぁっと窓から手をふってくれる。「わたしはここにいますよ」「あなたはそこにいますね」ということを伝えあう所作。こんなにもあなたはそこにいて、わたし…

服は紺色

『今夜は最高!』より、戸川純 服は紺色がいい。紺色は、抑制的で、規範的で、自制的で、消極的で、貞淑で、欲深くなく、だけど上等で、黒よりも冷たく、白よりも静かで、わたしの心を平らにするから。そして、紺色の服を着るときは、そこに「裂け目」がある…

本屋にいるとき、特に、ちくま文庫の棚の前に立っているとき、いつもしあわせな気持ちになります、なぜかというと、これから出会う知がこんなにもあるということがわかるから。 だけど、今日はかなしい気持ちにもなりました、だって、いつも、いつもわたしは…

「月が綺麗ですね」の現象学

わたしは、夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と翻訳したらしいというエピソードがとてもすき。 ふたりが絶対的に別の存在であることを認めたうえで、それでもなおある世界の美しさを、月の綺麗さに託して共有することで、さみしさを噛みしめるよ…

シューゲイザー

わたしの家の近くには小さな川が流れているのですが、そこを通りかかるとき、いつも誰かが、橋から川を覗きこんでいます。それは、友達同士とおもわれる数人のおばあちゃんであったり、仕事の休憩中なのかタバコを吸っているサラリーマンであったり、作業服…

これはわたしの性格の悪い部分が言っていたことなので、わたしはよく知らないんですけど、相手が自分に性的欲求を抱くことを当然のごとく信じているひとが苦手です。それは、星野源のANNの女性リスナーからのメールや、井口理ファンのツイートなどにときたま…

TARと穂村弘の嘆息

Tār(2022)-IMDb 子供のとき、感謝ばかりするラッパーに腹がたって「もっと反抗しろ!」と思っていたけれど、今、若いひとが何かを畏れたり、何かに反抗したりすることは尚更むずかしくなっていると感じる。若いひとが畏れたり反抗したりする必要がないように…

伊藤亜紗『手の倫理』

ピエール・ボナール≪浴槽≫ わたしは子供のころからアトピーで、皮膚がぴりぴり痛んだり、かゆくなったりして、自分の表面、つまり自分の輪郭を、つねにはっきりと感じながら生活してきました。また同時にわたしは子供のころから、第三の目が少し高いところか…

「大山咲み」

わたしは自分のことを、どちらかというと、感受性への水やりを熱心にしているほうだとおもっていたけれど、これまでより少し落ち着いた生活を4月からはじめて、自分の心がおもっていたよりぱさぱさとしていたことに気づいた。 若葉はつやつやしていて、少し…

春、土曜日

つけているか つけていないか わからない ベージュ色の口紅が、それに練りこまれた光を反射する粒子により、太陽のもとでちらちらと輝いている。あがた森魚の流れる喫茶店、カフェオレにコーヒーシュガーをしずめて、少し待ってからすくいあげると、角がまる…

わたしを見よ

「先生にほめられて自信がつきました。先生も自信がなくなったら、わたしのことを思い出してください。」と10歳の女の子が手紙を書いてくれた。あなたにほめられて自信がついた、だからあなたもわたしを思い出して自信をつければよい という鼓舞を、わたしは…

入学式

4月から、9年ぶりに大学に通っています。 入学式、国旗があり、金屏風があり、前にずらりと並ぶ大学の要職たちはみな高齢の男性だった。入学前に仕立てたのであろう黒のリクルートスーツに身を包んだ新入生たちは、等間隔に並べられたパイプ椅子に静かに着…

さくらみたいにふわふわの白い犬を連れたおじさんが、道ばたで立ち止まり、空き地のさくらへ携帯のカメラを向けていた。 雨上がり、公園にできた大きな水たまりを、赤い傘をさしたままのおばさんがじっと眺めていた。赤い傘が水たまりに反射して、そのうつく…

とびら/エナメルの靴

中央線で、幼稚園生くらいの女の子が、わたしの履いている靴をじーっと見ていた。わたしは、細いストラップが3本ついた、黒いエナメルの靴を履いていた。 わたしは幼稚園生のころ、特別なお出かけの日のために買ってもらったエナメルの靴が大好きで、普段か…

わたしが魔女の宅急便のあのいやなかんじの女の子だったとしたら、腹ぺこな夕食どきにおでんを届けにきたキキに対して「わたしおでんでご飯食べられないタイプなのよね」とぴしゃりと言ってしまうわけだけれども、お酒を飲んでいるときなら話は別で。久しぶ…

わたしは年末が一番すき。年末は、一年の中で心が一番休まるから。つまり、終わりがすき。見通しのもてない始まりではなくて、見通しのもてる終わりが、わたしの心をおだやかにする。 今敏が亡くなったときも、志村正彦が亡くなったときも、高橋幸宏が亡くな…

炭鉱のカナリア

「実家の太さは制作をつづける上で重要」というような話をよく見聞きする。わたしも学生の頃、お金のあるひとは生活に強い不安を抱かずに制作できるからいいな、と思うことはあった。また、自分のコンプレックスによる負のエネルギーを発しているひとが少な…

〇〇の神様

〇〇の神様が祝福している、と思うときがある。 たとえば、原美術館でトゥオンブリーの絵をはじめてみたとき、絵の神様が祝福している、と思った。かつて作者によってキャンバスに定着させられた色が、線が、今もそこできらきらしていた。 高畑勲の「かぐや…

通勤のバス、結露して曇りガラスになった窓に、信号の赤や緑が、街灯の白が、いつもより広くぼんやりと輝いている。窓をなぞって、その光を鮮明なものにしたいけれど、我慢する。わたしの指は、いつもおそるおそるしている。 祖母の家の縁側の障子紙に、少し…

冬休みの宿題

『アンダーグラウンド』(1995) 『アダムスファミリー2』(1993) 学生のころ、大学のシアタールームに友達3人集まって、クストリッツァの『アンダーグラウンド』を観たことがある。十字架にロープでくくりつけられた車椅子が、炎上しながらそのまわりを…

ソフィー

Hauru no ugoku shiro (2004) - IMDb ソフィーの鬱陶しいまでの卑屈さに、シンパシーを抱いたまま、大人になってしまった。「わたしなんか美しかったことなんて一度もないわ」と「年寄りのいいところは失うものが少ないことね」の間を都合よく揺れ動きながら…

白と黒、どちらに温かさを感じますか?わたしは黒。黒に感じる少しの温かさと、孤独に感じる少しの温かさは似ているような気がする。じゃあ死は? わたしはこれまで3回、「死ぬかもしれない」と思ったことがある。 1回目は小学生、家族で伊豆白浜海岸に行…

これが私の優しさです

先生と呼ばれて働くなかで、知らないうちにその立場にあぐらをかいてしまうんじゃないかとこわい。自分が、ひとに影響をあたえられる存在だと思いこんで、おごり高ぶってはいないか。または将来もしかして、親になるときが来たとして、傲慢になってしまわな…

中指を立てるということはひとを罵倒する行為なのだということを覚えたがために、中指を立て、または立てられ、顔をまっかにして怒る子。そんなこと知るまえは、怒ることはなかったのに。知る・覚えるという知識的な作業を通して、最も感情的な怒りが発生す…

おしろい花が咲いている。 おしろい花の種をつぶすとでてくる白い粉で、子どものころ、お化粧ごっこをした。その粉に毒があるとは知らず、身体のいろいろなところに塗った。おしろい花の白い粉を塗るとき、わたしはお姫様で、人魚で、妖精だった。 いま、朝…

授業中に大声で「おっぱい」を連呼する子に、「おっぱいって何度も言うと、おもしろいと思っているの?おもしろくないよ」と言ったあと、黙ったその子の顔をみて、自分が上沼恵美子ではなかったことに気づき、「おもしろいかどうかを審査すべきじゃなかった…

「これはね、爆発したごはん」

子供たちは、線をかいたり、色をぬったりすると、どうしてそうしたのかをわたしに話す。自分の表現がもつ意味をかんがえる。「このぐるぐるは、うずしお、船がよけてとおる」「これは、朝と夜のあいだの色だよ」 表現がもっていたはずの意味を、無かったこと…

地縛霊

廊下で出会い頭、2年生、元気いっぱいな女の子に「ねえ、先生はハロウィンの仮装なににするつもり?」と問われ、「わ、わたしは・・・わたしは・・・」と答えに窮しているうちに、「わたしは黒猫さんだよ、ニャンニャン♪」と言い残して女の子は消えていた。…

帰路、自転車をこぎながらマスクをずらすと、キンモクセイの冷たい空気でむねがいっぱいになる。わたしたちは、死なないために生きているわけじゃない。